年末から、年始にかけて、この新しい年が平成の終わりを告げる、という特集が、あらゆるマスメディアで取り上げられていた。多くの論調が、平成は昭和のひずみを引き継ぎ、それの、修正を加えようとした時期だが、社会も、政治も、行政のシステムも、その修正を果たすことが出来なかった。どちらかというと、平成は負の時代であったいう認識が多く示されていた。
昭和とは、戦争・終戦・荒廃・高度経済成長・所得倍増・バブル、負の記憶から、成功の記憶へ、多くの、昭和の時代を生きた人は、社会全体が浮足立ったような、そんな成長の記憶の中で、ある種、ノスタルジックな感傷を昭和に映している。そして、平成に入り、すぐにバブルがはじけ、景気は後退し、縮小していく社会に、不安を抱き、自己を守ることに汲々としなければならない、先の見えない時代へと落ち込むことになった。
ただ、変化も見える。平成に生まれた世代の多くは、物から事へ価値観の重心を移し、従来の社会的なステータスよりも、個人や家族の充足感を重視する価値観が広がりを見せ、それは、低成長や人口減少の中でも、順応し居場所を作ろうとする、懸命の試みにみえる。
このことは社会や、時代が変わっても、人はしたたかに生き抜いていくものであることを示している。
しかし、一個人では抗えないものもある。ナショナリズムが頭をもたげ、国家や人種、肌の色、宗教の違いによる、排他的な意識が世界を覆いつつある。かつての大戦の歴史から学ぶべきなのだが、みな、自分の成しえる豊かさを守るために精一杯で、違いを受容する心の隙間がなくなってきている。また、政治も自らの利益のために、そういった社会の対立を醜く利用し、意識の対立をあおる事で自らの地位を守ろうとする。
平成が終わり、新しい時代を迎える。私は、望むなら対立ではなく共存、協助の社会となるべく、新しい価値観を持った、時代の子供たちが安心して暮らせる社会になれるよう。自身が出来る事に取り組んでいく責任があると考えている。そして、その事が、またあしたの存在意味と重なるような、そんな価値観を持つことが出来れば、
・・・・・・・・いずれにしても、時代は大きな変革の時期に差しかかっている。これから、どのような時代が到来しようとも、それは、今生きているすべての人たちの、判断と責任の結果が招いたものだと、自覚し、生きていくことが、今を生きている人の責務だと心に刻む必要があると、一つの時代の終わりを迎え、今考えている。