ゆるりと 新しい年が始まる

令和3年 新しい年が始まりました。
今年は、どうやら社会の大きな混乱から始まりそうです。現在の感染状況を考慮に入れると、昨年以上に社会的・経済的な犠牲を払わなければならないような予感がします。ここに至る過程を考えると、多くの失政と、国のリーダーたちから発せられる間違ったシグナルが、今を招いているように感じています。こういった事態に直面する原因は何なのか、その根底には大きな歴史の流れがあると私は考えています。
この国では、有史以来、市民が自ら勝ち取った自治というものが存在しません。戦国時代の堺の商人による自治や、天草四郎を中心とする島原の乱のような信仰の自由を求めた蜂起はいくつか散見されますが、住民自らが国の為政者に対して、自らの権利を求めて、戦い・抗議し・多くの犠牲を払い、自治を勝ち取った歴史は一度もないのです。
第2次大戦後、ようやく国民主権を認める憲法が制定され、今に至りますが。これも、敗戦国である日本はGHQが作成した案をほぼ丸呑みするしかなかったもので、多くの日本国民の賛同を得たものではなかったといえます。ただ、いくつかの対戦で多くの犠牲(これは日本人だけではなく、日本との戦争で、多くの他国の方々もなくなっているということを常に考える必要はあるのですが)を払ったという意味では、戦争には負けたが、流した血の上で勝ち取った『自治の権利』と言えなくもないのですが。
その上で日本が真の民主主義国家であるというなら、今のコロナの状況や、ただお願いだけされて、国民が困ろうが路頭に迷おうが、知ったことではないという今の政治のありようを受け入れるしかないのです。そもそも、危機管理のできない為政者を選んだ責任は私たちにあるのですから。政治家は結果責任を負うのが仕事だとよく言われますが、私達の選んだ政治家が、今の状況で結果責任を負っていると考えているのなら、それが正しく受け入れるしかないのです。そもそも、その政治家を選んだのも、私達なのですから。
今の日本、与えられた憲法です。勝ち取ったものではありません。それでもかろうじて、基本的人権、国民主権、平和主義がうたわれています。そのうえで、どうそれを実現していくのか、日本国民としての自らの権利をどう守っていくのか、このコロナ禍は、そのことを私たち一人一人に問いかけているような気がします。