3月1日名古屋で起こった、認知症の方がひき起こした列車事故について、JRが損害賠償を求めていた訴訟について、最高裁が判決を下した。判決内容については、新聞報道などにより多くが語られているのでここでは取り上げないが、おおむね、介護家族が直面している実態に即した判決であったといえる。ただ、今回の判決は、全ての認知症の方が引き起こす第三者を巻き込む事故について、免責を認めている判決ではなく、個々の事例の中で、個々に判断を示されるべきもので、その点は、十分に留意しておく必要がある。また、認知症の方が加害者となり、第三者が被害者となった場合、その損害賠償が一律的に行われなくなると、被害者救済という観点からは、大きな非合理が生まれる点も、忘れるべきではない。今回の判決は、今まで、不明瞭であった、認知症の方が第三者に対して起こす可能性がある様々な損害について、一定の判断基準を示したという点において、今後に残す影響は大きい。
一方、一審二審で示された、判断が、今回、最高裁で覆されることとなったのだが、この二つの社会的な影響は、計り知れない。多くの、認知症の方を介護している家族は、判決内容に恐怖し絶望感さえ抱いたことは想像に難くない。また、認知症があっても最後までその人らしく生きることを阻む動きを加速させたような気がする。なぜなら、その人らしく、自由に、生きていける環境を作ろうと知ればするほど、目が届かなくなり、大きなリスクを発生させる要因が大きくなるからだ、介護の社会化が言われ、地域で支える、と言っても。現実は追いついていないし、仮に、そういったシステムが構築されていても、リスクが発生した場合は、監督者である家族に賠償責任が発生するリスクは回避できない。
介護家族の中には、それであれば、行動を様々な手法で抑制したい。あるいは、在宅ではなく施設を選択したいというニーズが沸き起こってくるのは避けようもない。
施設の数が足りず、最後サービスの質も量も不十分で、介護労働者のなり手もいない、判決はどうあれ、この国で過ご人生の終末期があまり豊かでないということは、何も変わらない。国があてにならないなら自己防衛するしか手段はないが、それさえ実現できる人は一握りだ、
どうするのか、どこに向かうのか、私たち自身も何が必要とされ、何が出来るのか、考え、取り組んでいかなければならない。