新オレンジプラン

政府の認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)は「認知症の人が住み慣れた地域のよい環境で自分らしく暮らし続けることができる社会」の実現を目指すという。

 増え続ける認知症の人をすべて介護施設や病院で対応していたのでは、施設が足りないばかりか、莫大なコストがかかる。本人も自宅で過ごしたいという希望が多い。このため、政府は自宅や高齢者住宅での療養を基本とする方針だ。

 ただ独居や老夫婦だけの世帯が増える中で、自宅などを基本とするには介護や医療のサービスだけでなく、掃除、洗濯、買い物、見守りなどの日常生活の支援も必要だ。

 政府は生活支援の費用がなるべくかからないよう、住民ボランティアやNPOなどに任せたい考え。中学校区ぐらいを一つの単位とし、その中で医療や介護、生活支援が切れ目なく提供できる体制を「地域包括ケアシステム」と呼び、市町村にこのシステムを完成させるよう号令をかけている。

 介護保険制度の見直しによってもこうした流れは強化される。2015年度からは、認知症の人を含む軽度の要介護者については、全国一律の介護保険サービスよりも、地域の実情に応じNPOなどが提供する生活支援サービスを重視する。

 地域包括ケアシステムについては「ボランティアにどこまで頼れるのか」といった不安のほか、「市町村に同システムを構築するマネジメント能力や人材が不足している」(斉木大・日本総合研究所シニアマネジャー)との指摘もある。(日経新聞引用)

さて、こういった政府の方針について、後段で述べられている、市町村のマネジメント力の不足、あるは、そういった能力の市町村の格差は、まず、確実に生まれる。住んでいる地域によって、受けられる、サービスの質に違いが生ずるということになる。それに加え、市町村の財源力の差も、差のサービスの中身や室に大きな影響を及ぼす。
そのこと以上に、不安視すべきなのは、政府が、都合の良い、コスト削減(驚くほどノープランなことが多い)をはかるときに持ち出す、地域の力の活用や、ボランティアやNPOなどが提供する、安価なサービスをを定着させるという、まったく無責任な政策を提示していることだ。
もちろん、NPO、ボランティア、地域力。そういったものが、無用であるなどとは全く思っていない。ただ、こういった、市民の自発的な力の結集はあくまでも、中核ではなく、補完的ななものにすぎないということである。こういった認識のないままに、『新オレンジプラン』が進められれば、この国の政府は、その役割の一部を放棄したと言えるのではないだろうか?
ボランティア・地域で、軽度の要介護者を支える、その言葉の本当の意味はなんなのだろう?
本当に、在宅で過ごす、認知症の方々を支え切れるのか、これほど、地域の繋がりがなくなっている今、隣に住んでいる人が、どんな人か知らない、あるいは、自身が、関わってもらいたくないと思っている、現在人のこういった論法が通用するのか、その答えは、少し想像力がある人ならすぐにたどり着く。
みなが仕事で、従事している介護現場でさえ疲弊している、その現実を踏まえず、軽度であれば、大した知識もいらず、簡単に市民同士で助け合えるだろう、などという発想には、恐怖すら覚える。
『新オレンジプラン』が示す真の姿は、結局はお金がない経済弱所はそれに見合うサービスを、富裕層には、富裕層に見合うサービスを、ということに尽きる。このことは、お金を持っている人は、応分を負担を行い、そうでない人も、生存権を国が補償するそのための社会システムを国家が構築する。という意味では正しいともいえる。ただし、社会システムの構築が、不完全な政策をこのままの形で導入するのはあまりにも危険すぎる。
ただ、最も危険なのは、この国で私たちが生きて行くための重要な政策変更が行われようとしているのに、全く無関心あるいは無関与な国民がほとんどなこの国の国民性なのかもしれない。
自分たちが、本当に、その場面に直面した時では、遅すぎるのに・・・・・